『自由』という名の権利と『責任』という名の義務
世界が変わってほしいと思うか?
では、あなた自身の世界を変えなさいニール・ドナルド・ウォルシュ(作家)
言論の自由。 日本国憲法第21条に定められた、最も有名で論争の絶えない条文ですね。 <集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密>とあるように、私たちは自由に自分の意見を発表する権利を保障されています。 だからと言って、何を言ってもいいんだよ、というわけではないのですが。*1
さて、dexiosu氏がプログを更新していました。 どうやら言論の自由とコミケ運営者の皆さん&2ちゃんねるの名無しさん方を叩く脳内正当性を強引に結び付けているようです。
では、今回も気合を入れて*2突っ込みを入れていきましょう。
……と、その前に、言論の自由とその背景について少しおさらいしておきましょうか。
この権利は、上記の通り個人やマス・メディアなどが意見・情報等を自由に発することを保障するものです。 マス・メディアがこの権利を楯にあーだこーだと散々まくし立てているのは珍しいことではありません。
ここで大切なのは、この権利は『発言行為そのものを保障しているだけであって、その責任は発言者が負わなければならない』ということです。
また、ここで言う『責任を負うこと』とは、正当な発言であることを保証するということと異論・反論・意見・批評等を受け止めるということです。
また、この権利に関してしばしば耳にする言葉のひとつに『言論の弾圧』というものがあります。 本当に簡単に使われている言葉ですが、この弾圧というものは本来、公権力による言論の妨害を指します。 かつての日本政府は天皇制や軍事体制を批判するような言動を弾圧していました。 その教訓が、憲法第21条に盛り込まれた『言論の自由』なのです。 つまり、『言論の自由』とは『言論の弾圧の禁止』であると言えます。